束広島市には古くから居蔵造りという建物かある。
これは、東広島の土地、気候、生活、入間といった絡みから生まれた伝統的住居であるが、最近だんだんと居蔵造りの姿が消えていっている。新建築家技術者集団西条班『海道、鈴木(地域公団)、西川(県職員))、中(工務店)』は東広島の伝統的な居蔵造りをどう守り、今後活かしていくか、このテーマに半年をかけて取り組み建築行政誌に掲載したものです。
昭和53年掲載
新建築技術者集団 西条班
写真No.1 (居蔵造りの全景)
この写真をご覧になって、多くの人は、普通の二階建農家住宅だと思われることでしょう。それにしても二階建てにしては、階高が低く、窓が少ないので、少々変だなと、感じられるに違いありません。実はこの住宅は平家建てであり、二階と思われる部分には床は張ってなく、全く用途はありません。無論階段の取り付けもなく倉庫としての使用もほとんど見られません。一つだけある窓は、単なる明かり取りのようです。無駄なスペースをできるだけ少なくしようと考える住宅建築においてこれほど不必要と思われる部分に経費と労力を注ぎ込む住宅も珍しいのではないかと思います。私たちはこの事に大変な興味と驚きを感じ調査をはじめました。
この二重屋根農家住宅の形式を、「居蔵造り」と呼んでいます。これはこの地方だけのものではないようですが、その広がりは調査不足なので、皆様のご協力を得たいところです。広島県のほぼ中央に位置している賀茂地方の農村を中心に、南北に日本海側から瀬戸内海側、さらに四国地方まで分布しているようです。しかし賀茂地方の中心である東広島市ほど多く集まっている地域は、ほかにはないようです。私達は、東広島市八本松の旧吉川村について調査を行ったところ、居蔵造りの農家は32軒ありました。これは全農家戸数の15%にあたります。この旧吉川村は兼業農家が大部分ですが、東広島市の中では特別多く分布している地域ではありません。市の農家が約7,000軒ですので、東広島市だけでも居蔵造りの農家は、約1,000軒以上はあるように思われます。また私達が旧吉川村の居蔵造り32軒の建築年次を調査したところ(表1)のような結果でした。
表1 旧吉川村居蔵造りの建築年次戸数
居蔵造りは一つの流行のようなもので、ある時期にピークがあるのではないかと思っていました。住宅の建築は、ある時期に急激な人口の流入でもない限り建築戸数も大きく変化しないのが自然でしょう。(旧吉川村もその意味では変化の少ない部落です。)そしてそれまでの住宅がある程度老朽化していくに従い、徐々に建て替えられていく中で、何割かが居蔵造りになっていったと言えます。民家としては確かに新しい居蔵造りも、約100年という歳月を経てこの地方に根付いています。そして現在もなお新しく何軒かが生まれてきています。このような居蔵造りは、地域的にも歴史的にもかなり広範囲にわたり、農業者及び施工者(大工)の中に定着している建築様式です。
1.居蔵造りの特徴
(1)外 観
この様式の主たる特徴は、二重屋根にあります。上部屋根をうえやね、下部をしたやねと呼び、その間の壁の部分をくちあきといっています。くちあきの寸法は家の大きさや、建築年代等に関係があるようですが、三尺程度のものが多いようです。40坪程度の一般的住宅では、この程度の高さでちょうど釣りNo.いがとれるのでしょう。平面は原則的に矩形で、屋根の形は左右前後ほぼ対称的になっています。うえやねの形ですが、入り母屋の場合妻側の壁面や母屋の先端が、内側に位置していますが、居蔵造りの場合(図1)のように外側になっています。こうした所から私達はこの造りを「重層屋根母屋造り」と銘打ちました。
(2)構造
外観とも関連がありますが、うえやね、したやね共に軒の出は、深く四尺五寸もあります。そのため社寺建築でよく見られるはね木を利用した構造になっています。この地方ではこれを「ほんぬき」といっています。
この地方の農家住宅の玄関は、必ず南面し東寄りに位置しています。そして南側の広縁を充分に開放さすため、この面には外壁がありません。これを可能にするため、南側と西側の外壁の梁桁に、直径一尺前後の「こう梁(縁こう梁)」と呼ばれる杉丸太を配しています。この丸太は皮をはぎ竹ベラで薄皮をそぎ落とし、砂で磨いてさらに、焼酎をかけて磨きあげたものです。こう梁は、構造材であると同時に化粧材でもある訳で、この種の住宅の見せ所の一つになっています。しかし遠くからでは、深い軒の出に隠れて見せないようにするのが良いとされています。焼酎を使用する理由はアルコールで白いはだを焼いて黄味を出し均一な色にするためです。四軒のこう梁二本(直径約40㎝)に焼酎三升を使用するとのことです。
古い居蔵造りの中には、玄関を入ると広い土間になっていますが、この土間の上部は天井を貼らず、小屋組を見せ、小屋組が複雑に数が多く交差しているほど良い住宅と呼ばれ競って建てられたものです。この小屋組は現在では、和小屋から洋小屋に変わってきているようです。
(3)居住性
東広島市の夏は広島市より月平均で約0.7℃低い程度ですから、日中の暑さは、他とそれほど変わりはありません。草葺の住宅でもそうですが居蔵造りでは、蒸し返すようなあの暑さとは縁がありません。無駄と思われる大きな小屋裏の空間は、人工の断熱材となっています。また深い軒の出と南の広縁は、夏の日差しをさえぎる役を果たしています。住んでいる人の話によると、夏でも昼寝をする時は毛布が必要で、クーラーどころか扇風機すらめったに使用しないとのことです。「省エネルギー化住宅」が論議されている現在、この地方の農家住宅に関しては、断熱材を使用しなくても省エネルギー化は充分に果たしているように思えます。
12月 | 1月 | 2月 | |
---|---|---|---|
東広島市 | -0.2度(摂氏) | -2.3 | -1.9 |
京都市 | 1.6 | -0.6 | -0.3 |
広島市 | 2.4 | 0.2 | 0.4 |
(表2 月平均最低気温 1941~1970年 )
(4)平面
いずれの農村でもそうであるように、一般の農家は明治以前は、1~2室に土間の付いたワラ葺やカヤ葺であり瓦屋根は、まれでした。西日本の比較的裕福な農家住宅の平面は「田の字」型の中には、図2のように四室型と六室型とがあり四室型の中にも八六の間取りと四八の間取り等のタイプがあるようです。この平面は玄関から入ったすぐ土間でその奥が台所となっています。
(図2 「田の字」型平面の種類)
以上居蔵造りの特徴を述べてきましたが、ほんぬき、こう梁、赤色の釉薬瓦、「田の字」型平面等は、居蔵造りだけのものではありません。この地方の農家住宅の多くは、この形式をとっています。これら伝統ある形式と二重屋根との組み合わせによって「完成された素朴な美しさを持つ居蔵造り」が、現在この地方に定着しているといえます。
2.居蔵造りの起こり
この造りの歴史は比較的新しいもので、瓦の一般農家への普及と大きな係りがあると思われます。賀茂地方の一般家屋で広く瓦を用いるようになったのは、約100年前といわれています。なぜこの地方で赤色の釉薬瓦が使用されるようになったかについては、表(2)で明らかですが、さらに瓦の原料となる油土が東広島市西条町下三永で産出された事も、大きな理由でしょう。明治元年下三永に瓦工場が出来てから大正の初めには、西条町付近で年間150万枚を生産するようになり、第二次大戦までの約30年間で屋根面積60万坪が釉薬瓦となったことになります。そして瓦の使用が増加してくると同時に、それまでの草葺に対し居蔵造りが生まれたものと思われます。
ところでその外形の発生については、私達は次のように推測してみました。
写真2は昔からのカヤ葺農家です。草葺は当然軒先が弱点ですから、まだ瓦が高価で普及していない時代において、写真3のように軒瓦を付けた形になる事は、自然なことと思われます。写真2では樋を付ける事は出来ませんが、写真3では可能で雨水排水も良くなります。これが二重屋根の発生ではないかと思われます。瓦の普及が進むにつれ屋根全体が瓦葺になるわけですが、二重屋根の構造がそのまま残り写真4のような居蔵造りとなったのではないでしょうか。古い居蔵造りの中には、くちあきが狭く一尺程度のものもあります。家の大きさと高さのバランスから、経験的に三尺程度が一番安定感があるとされてきたのでしょう。草葺は屋根勾配が10分の8程度ですが、瓦葺では10分の3~10分の5.5ですから、そのままでは屋根が低く何百年も親しまれてきた草葺の家に比べて、バランスが良くないと感じる事や、小屋裏が大きく、寒暑を感じさせない草葺の住宅に住み慣れた人々が、瓦葺でも同じようなものと考え出すのはごく当然のことでしょう。
なお「居蔵」はこの地方では「ユグラ」と呼ばれています。その字も「井蔵」と書くのが正解だと言う人もあり、確かなところはわかりません。
3.「田の字」型平面の問題点
この事に関しては、さまざまの人々が調査研究発表しているところですが、私達は田の字間取りをした居蔵造りの住まい方について、東広島市八本松町原に住むAさんの場合を例にとって考察してみます。
この旧原村も農家が大部分ですが、若干そうでない家も入り込んできている地域です。
Aさんの元の家はワラ葺で、オモテが八帖と四帖、ウラが六帖と六帖の田の字型でしたが、七人家族では狭いので昭和36年現在の居蔵造りに建て替えました。そのときの家族構成はAさん夫婦(Aさん34歳)、ご両親、長男(7歳)、次男(4歳)、Aさんの弟(15歳)の三世代家族でした。就寝は、なんどに若夫婦、でえに老人夫婦、おくなんどに子供達三人でし
た。その当時は玄関の外に便所があったため、子供が夜中に便所に行くのに夫婦寝室を通らないようにとの配慮からです。玄関横の二帖の室は、中学生になるAさんの弟が勉強部屋として使っており、子供達が成長して中学生ぐらいになると、個室の要求が強くなりますが、田の字
型ではうまくいきません。
母屋(おもや)を建てた8年後(昭和44年)西側に二階建四室の離れを増築しました。このとき子供達は23歳(社会人)、16歳(高校生)、12歳(小学生)となり個室の要求を満たす為、離れが必要だったと思われます。この一階には老人夫婦と弟さん、二階には二人の息子達の室という使い方になった結果、母屋にはAさん夫婦だけになりました。七人家族の居住機能の大半は「住み心地の良い」はずの母屋から離れに移ったわけです。このように田の字型間取りでは、家族が大きくなると居住要求をうまく満たすことは出来ません。調査によると、AさんのいるB部落では、母屋だけを住居にしている家は37軒のうち9軒だけでした。
その後46年に弟さんが結婚、長男が就職、50年に次男が大学入学でそれぞれ独立し、53年におじいさんが亡くなられた為、現在家族は三人となり、おくなんどに夫婦、でえにおばあさんが就寝しており、離れは日常使用されなくなっています。
Aさんの部落では、年三回「一夜法座」(お坊さんの説教を聞く会、およりと言う)が各班長の家の持ち回りで行われ、出席率は80%程度で約30名集まります。このおよりは宗教的意味だけでなく、部落間の付き合いを保つうえでも大切な役割を果たしています。でも家が狭いとおよりを持てないので、班長を辞退するとか、組に入らないとか、肩身の狭い思いをしなければなりません。常会(地域自治会に似た組織)も名家で行われ、夜遅くまで活発に話が弾むこともあり、これに対しては、家人に迷惑をかけるので部落の集会所を設けてやりたいという希望が出ています。
一般には、その他葬式、結婚、盆、正月の親戚兄弟の集まり、選挙の寄り合いなど、まだまだ家での集まりを持つ機械が、多いと言われています。
このように農村社会では接客、寄り合い、集まりを非常に大切にする一方、個室の要求も強くあります。換言すれば「田の字型間取りも必要だが個々の室も欲しい」というのが、この地方の農家の人々の一般的な考えのようです。この矛盾を解決する為、草葺の時代では二階建がなかったので離れを建てていた訳で、この習慣は現在でも引き継がれています。しかし敷地の大きさや資金的制約から、現在では二階建にしてしまうものが多くなっているようです。これでは居蔵造りは、見捨てられる事になります。そこで私達は、平家のまま平面の改良でこの矛盾を解決する方法として、田の字型に対して「タテ型のプラン」を提案しました。
概要
建物面積=114 m2(34.5坪)
構造=木造・居蔵造り
主体工事費=966万円(昭和53年当時の金額です)
坪単価=28万/坪
家族構成=老夫婦、若夫婦、子供二人
このプランの特徴は、居蔵造りの外観を変えずに若い人たちにも好まれ、しかも老夫婦と若夫婦が離れを造らなくても同じ屋根の下で暮らすことの出来る間取りです。またプライバシーの確保を重視し、南側の室を有効に利用しています。これまでの田の字型平面に比べ、集まり、接客の面は劣りますが、老人室と和室八帖襖をはずして、縦に二室つないで使用する事が出来ます。このプランは一例ですが、私達は、この地方の居蔵造りが更に定着したものになる為の新たな提案をしてゆきたいと考えます。
4.真型農家住宅の構造的問題点
ご承知の通り学会の、木構造設計基準では、その203・3により木造の耐力壁量の所用長さが定められており、同様のことが建築基準法施行令第43条でも決められています。また同基準203・3(4)(C)では「必要耐力壁の有効長さのうち50%以上を筋かい又は控柱を入れたものとする」となっています。施行令ではこの事には触れていません。さて、居蔵造りも含めてこの地方の農家住宅は、一般的に真壁造りです。これを建築するにあたり、学会基準を遵守する際の問題点及び疑問点を述べたいと思います。
(A)真壁の美しさは、水平及び垂直の直線美であり、筋かいが外観に現れると、これとは相容れないものになる。
(B)外観に筋かいをいれると、雨仕舞いに困難を生じる。また鉄筋のブレースを使用すれば、外壁にさびが浮いて出てくる。
(C)この地方の農家住宅は南側及び西側を充分に開放さすため、その面に外壁を設けないものが多い。
(D)古来の木造建築は建物のほぼ中央に大黒柱と呼ばれ30~50cm角の柱と梁を精密な仕口により剛接合(弥次郎兵衛のように)となっています。これに併せて各柱にぬきを通し風、地震に耐える工法は現在の木造住宅には見られない点である。
(E)日本古来の木造建築の優れた点である精密な仕口の施工技術を身に付けている施工者の多くは、現代日本の木造住宅の主流である、いわゆる「モルタル塗り木造建築」の粗雑な面と対比さし、「スジカイを入れる必要のある建物は貧弱なもの」という感覚をもっている。
(F)実際にこの地方の農家住宅の中には、100年以上も年数を経たものがかなり存在している。西条町で明治初期、旧吉川村では江戸末期(約150年前)に建築されたといわれる住宅を、私達は調査したが、現在でもその中で充分な生活が出 来、無論修繕工事は行われている。)今後も何代かはもつのではないかと思われような立派なものであった。
(G)以上のような点から真壁の住宅を建築するにあたって、施主及び施工者の中に、筋かいを嫌う感覚が根強く存在している。
こうした事から現実的には、この地方においては学会基準に適合しない住宅が建築されています。精密に組まれた仕口をもつ真壁より、トラス構造の壁の方が、耐力壁としてはより有効であることは明らかですが、それがどの程度なのか、実大実験の結果のない今日においては、前述の施主や施工者に対する説得力は、あまり強いものとはなり得ないでいます。むしろこうした規準が伝統ある日本の真壁造りの建築の良さを、失わせることになりはしないかと懸念する意見もあります。そこで、(実験研究する能力を持たないのであくまで推測の域を脱しないの ですが)私達は次の事を提案します。
(1)規準203・3による、耐力室の有効長さの算定に用いる倍率の数値を定めるにあって、真壁の場合、その仕口、間柱、貫等の構法の違いも考慮すべきではないか。
(2)ある程度以上の倍率が望める構法のものに対しては、203・3(4)Cにいう筋か
い又は控柱を入れた耐力壁と、同等にと考えても良いのではないか。
以上現段階までの調査結果ならびに居蔵造りの伝承について愚見を呈した次第です。