東広島市特有の居蔵造りー暮らしの新聞 ひがしひろしまー

暮らしの新聞 ひがしひろしま (東広島ジヤーナル) 昭和53年掲載

当時発行した一部を編集したものの掲載です、(当時 新建築家技術者集団西条班 中 俊治)

束広島市には古くから居蔵造りという建物かある。
これは、東広島の土地、気候、生活、入間といった絡みから生まれた伝統的住居であるが、最近だんだんと居蔵造りの姿が消えていっている。新建築家技術者集団西条班『海道、鈴木(地域公団)、西川(県職員))、中(工務店)』は東広島の伝統的な居蔵造りをどう守り、今後活かしていくか、このテーマに半年をかけて取り組んだ。

序説

私達のまわりにはいろいろのタイプのすまいがある。がっちりと構えも大きい農家住宅、西条や白市の旧市街地の古い民家、最近急に増えてきたマンションや宅地造成地に居並ぶモダンな住宅、あまり立派とはいえない木造アパートなどなど。これ等の住まいは住み手の生活や仕事に対応し、また経済力の違いや
建築材料の変化、建築技術、建築主の住まい観などでその時々に様々に建てられたものの積み重ねとし.て私達の眼にふれている。農家の住宅の歴史を考えてみますと、よく知られているように縄文時代には中央にイロリを置いて30㎝ほど掘り下げたたてあな式住居、これが弥生時代に農耕が始まると登呂遺跡に見られる土塁たてあなが.平野に出現し.更に古墳時代にはたてあなを設けない.平地住居や、一部の支配階級は、高床住居に住むようになりました、支配階級の住居はその後寝殿造や書院造へと発展していきましたが、農家住宅は、江戸時代に入るまでほぼ千年の間はほとんど変化かありませんでした.江戸時代に人って村の上層の本百姓が形成され、地方的特色を持った住宅の型をつくりだしました。つまり、東北日本では「広間型」、広島を含む.西南日本では「田の字型」(四ツ目型)の住宅、平面に大きく2分され、その西南日本でも、室の呼び名や、ニワ(土間)の取り方にそれぞれ特徴のある、平面に分化してゆきよした。たとえば、束広島などで見られる農家はほとんど東側(右側)に土間、玄関かありますが、九州では左側から入るものが多いようですこの「田の字型」は、戦前まではほとんどの農家住宅で用いられて、きましたが、戦後我が国の民主化の中て農村での住宅改善の運動かひろまっていきました。はじめは台所改善か主でしたが、今日では家族生活を大切にしょうとする考え方や、農作業の機械化や比重の低下により土間空間の縮少、消滅、台所改善(タイニンクキ.チン化}へ発展しています。また中廊下を設けて室の機能を高めたり、広縁へのアルミサッシの窓を持いたり、出玄関を設けたり、2階建てにする家も多くなってきています。以上長々と、住宅の歴史を述べてきましたのは、これから始めようとしていますこの連載を書くにあたって、常に歴史・風土の中てすまいを考えたいと思っているからです、私達が、テーマとして選んだ「居蔵」は、他のいわゆる民家建築に比べても遜色ないほどひとつの完成された姿をもっています。その特色などはこれからの連載で明らかにしますか、その発生が明治からで、瓦の民家への普及とともに広まり、今日でも盛んに建築されているところに居蔵造のスタイルヘの指向の強さがわかります。そしてまさにそこに他の地方の文化財的民家などとは違.つた.大きな特徴があると考えているのです。この100年間の積み重ねによって、西条盆地には四季それぞれにマノチした美しい景観が形成されています、居蔵造の志向を単に、この地方の人達の見栄だといってしまうので、はな<、やはり歴史・伝統の中で完成されたこの様式はこれからも大切にしてほしいと思う。一方、住宅の間取りまだ好ましいものになっていないのも事実です、この建築構造が住宅の平面を制約しているのか民家の特色で、「平面を考えておいて後に構造を考えて、それでおさまる」数寄屋(すきや)とは対照的だといわれています「民家は生きていた」(伊藤ていじ)しかし、この平面一間取りについても、工夫によって住みよいものにできるし、この連載の後半で、私達の提案示す予定です。学園都市の建設か市是として進められている中で、蓄積されてきた建築の伝統を見直して、将来に生かしてゆく道を探りだせればというのか私達の願いです。皆様のご意見や批判、資料提供などいただければ幸いですなお、私達「新建」は、1970年に設立された建築家・技術者の全国組織で、相.互交流・.要求実現や住みよい環境づくりへの参画、新しい建築学の創造と理念,心の形成などを目的としています、新建西条班のメンバーか、この半年問ほどの調査をもとに分担して執筆します。(海道)

第一章

瀬.戸内の海岸線から、国道375号線を北へ、広町の雑然とした町並みをぬけ黒瀬に入ると、自然によく溶けあい、安定感のある農家住宅を数多く見る.事ができます。さらに西条盆地に入ると、「居蔵造り」の農家住宅の連なった田園風景か広がリ、その完成された美しさを見ることかできます。山陰地方でよく見られる築地松で囲まれた農家住宅の連なった光景と同じように、一定の型の地域景観は、落ち着きを感じさせるものです、都市を中心として、大量に卿建築されている一般的木造住宅に比べるなら、この居蔵造りは、耐久性、見栄え、居住性ともその良さは多くの人か認めるところでしょう、平家建てでありながら、二重の屋根とするものを、居蔵造りと呼んでいるわけですか、その上屋根は、一般的な入り母屋の屋根とは異なり、図のように、母屋がくちあきの裏側の壁面より外側に位置するところから、『重層屋根出母屋造り」と、銘打つことができると思われます。これは、全.国的にも珍しい型です。下屋根の勾配を、上屋根より少し緩くし、どっしりとした感じを与えるようにしています、比較的温暖な地域では、黒瓦を使用したものもありますが、賀茂地域では赤い袖瓦が、ほとんどのようです。この色かまた、周りの風景に良く合ったものになっています。

玄関は、必ず南.面し、束寄りに位置しています、南側と西側に、L宇についている広縁を十,分に開放さすため、この面には外壁かなく、くちあきと呼はれる上屋根の下に位置している、横に長い壁や、間柱の連続とは、対照を見せています。この広縁の上部の梁には、こう梁と呼はれる1尺前後の杉丸太を配しています。こう梁は、この地方の農家住宅の見せ所の一つですか、軒に近くに寄るまでは、見ることが出来ないようにされています.この丸太は、皮を剥ぎ、竹ベラで薄皮をそぎ落とし、砂で磨いて史に、焼酎をたっぷりかけて磨きあげたものです、
軒の出は、約四尺.五寸あり、この深い軒を支えるために、はね木を利用した構造となっています.これは、天秤の.原理を利用したもので、社寺建築等で、よく見られる方法です。この地方では、「ほんぬき」と、呼ばれています、昔の居蔵は、玄関から入るとすぐに上間かあり、その天井は、吹き抜けになっており、太くてゴツゴツした梁や桁の組み合わさった和小屋の壮観な眺めを、見ることかできます。しかし、最近のものは、土間はなくなり、小屋組も洋小屋のものが、多くなっています、外観の美しさもさることなから居蔵造りの最たる良さ.は、天井と屋根との十分な空間が、断熱層となり、夏の強烈な日照から、家内を守ることにあります、これは、「深い軒の出」とともに、居住性を高める.要素の一つになっています。一見ムダとも思える大きな空間か、日進月歩改良されている。どんな断熱材よりも.良い性能を持っているといえるでしょう。
無論、ゆとりのある敷地から、これは可能になっているのでありますか、ムダなスペースをなくすことに最重点の置かれている近代住宅の平.面計.画に対し、一つの疑問を投げ掛けるものでしょう。(西川)

西条の田園風景にうまくとけあった居蔵に興味を覚え、居蔵を造っておられる大工Kさんを尋ね、話を聞かせてもらった、Kさんの話を紹介しましょう.居蔵を造るには、特殊な技術がいるわけではないが、人により違ったものか゛出来ている我々は、建てた居蔵をみれば、建てた大工さんがすくにわかります。居蔵は遠くから見ると、平たく見えるが、本当は、屋根は高く大地にしっかりと羽を広げたよりに見え、図面で表わそうとしてもなかなか出来ません、居蔵造りは、屋根勾配、それに瓦の吹き上げと壁の立ち上がり(口あき)の加減で型か変わってきます。上黒瀬に私か、居蔵の座敷を建てたのですが、その座敷'(離れ)と同じものを造るといって、他の大工さんが寸法を計って帰られたのですか、おそらく同じ物は出来ていないでしょう、それは居蔵の教科書は、造った本人の頭の中だからです。私の場合は、①・尺杖は一現場で1本しか作らないし、別の現.場に行く時には、それを削って盛り返すことにしており、図面を書いても平面と正面の姿図を書く程度で、勾配にしてもおよそに近いもので、計算して書くわけではないのですか、グラフ用紙の上に書いて見ておかしいと思ったら、変えて墨打する感じで描くのですが設計士が寸法を計算して書いた姿図より、本当の感じが出てくると思うのです。居蔵の特徴は、まず材木の大きいこと、それにこうりょう、出し桁、本ヌキ、二重屋根です。こうりょうを磨くのは、婦人会や親戚の人をたのみます.磨いたあと、こうりょうの肌を酒で焼くのですか、これは肌に黄味を出すため、木にもよりますか皮をむいた時に色か違うので肌を焼いて均一にするためです、酒をつけて磨く方法は昔から伝わって来ています.酒より35度の焼酎の方がよいようで、酒かない時には、食用油やヌカを作っていたようです。いずれも光がでてきれいになります。居蔵造り場合人から筋違をいわれても、いれた事はありません、建てる時、ひとまず組んだら全部筋違(仮筋違)をはすします、建てた時点で修理する必要かないし、木を組んでいったら自然と、たてりがおきてくるようになっているからです、筋違をいれなくても大丈夫という事です、部屋の中に入れるのはいいのですが、外部に入れると、見た目が悪いし、真壁だと雨が入る事もある、厚いのを入れると竹を編むへいごまいの竹を切るようになり、細い筋濠をいれても弱く意味がないのではないかと思います、最近修繕を頼まれた事があるが、根太から下か多いようです、昔は基礎かせいぜい5㎝くらいで(石を置いただけ)、前側は日当りたりもよく、水はけもよいのですが、裏側は水はけか悪くこけか生えていた家も多いようで.した.今の居蔵たと、基礎もしつかりしてきており100年以上たっても大丈夫でしょう、それと.瓦の葺き替えも出てきていますか、私はきまち瓦を使っていますが、きまち瓦100年はもつでしょう、新赤瓦だと、どの位もつかわかりませんが早いものでは3年位で剥げてきたものもありました、居蔵造は、賀茂郡が主で本郷をぬけるとこのあたりのような居蔵はあまり見ることは出来ません、下は、海田迄ではないでしょうか、最近黒瀬あたり迄、増えて来ていますが、居蔵造りはどこから見ても格好がいいし、たしかに.平屋から見れば、お金はかかりますか、15坪の座敷でも、居蔵だと母屋(居蔵以外の場合)母屋が、霞んでしまって「あんた方は、何処に在るのという事になってしまいます」。H邸の場合等外材は1本も無いし、松の13mの一本物の通し梁は、山師が何人も探し、比婆.西城で見つけて来ました、この松.でこうりょう3本は、買えるでしょう、Hさんか出来るたけ通しを使ってくわという布望もありましたが、居蔵造りではこういう事は珍しくありません、建築費は、坪24~25万円位で(昭和53年当時)で出来、プレハブよリ安くつくか、ただ人を多く使ってやると、その金額では出来なくなってきます・、居蔵造りは冬は寒気が入らず、夏は上の空間が大きいため、グラスウールを張ったものよりは、住み心地が良いはすです.平屋を建てた人が、もう少しお金をかけて居蔵にしておけば良かったと言う事もよく耳にしますこれかりもやはり請負士の私達か、居蔵を勧め、儲けより、いいものを造り、後を継ぐ入を育てあげ、西条地特有の居蔵を残していただきたいものです。( 中 )

今年の六月から西条の町に住むようになった私ですか、それはちょうど田植の時期でもありました.その田園風景の中にどっしりと構え、周囲とうまく調和していたのか、これから触れようとしている居蔵造りの農家
てした。赤茶色の大きく美しい瓦屋根、そして外観の持つ安定感は、今まで東京を離れ住んだことのない私にとって、非常に印象深いものでした。とこみ、で農家建築の大きな特色として、地方ごとに生活習慣や風土に適した独特の形式を持つことかあけられます.例えば屋根の形を主とした外観上の特徴から見ると、南部地方の曲屋、信州の本むね造り、岐阜の合掌造りなどかあります。プてして居蔵造りは、歴史的には比較的新しいものですが、この地域を代表するものといえるでしょう、その特徴につきましては前回までにまとめましたか、.平面プランは居蔵造りの発生前の草葺の農家と相違はなく、特徴は外観にあるといえます。そして、その発生は、屋根材として使われている瓦と大きな関わりがあります、一般に、寺院建築では奈良時代から瓦が使用され、また京都や大阪の町屋でもかなり古くから瓦葺かありました.中国地方では備前が瓦の先進地帯で、東大寺の瓦は備前瀬戸町万富の瓦場で焼かれたということで。
備前備中南部や備後束南部の.平野地帯では、本瓦葺の軒をつけているのか普通ですか、主屋全体を瓦降とするようになるのは、一般民家では明治時代末期からと考えられています、それでは西条盆地における瓦についてはどうかといいますと、一般家屋か冬期の寒冷や積雨、に弱い黒.瓦でなく、褐色の釉薬をこの上地で焼いて広く用いるようになってから、およそ百年といわれています。何故、西条盆地で釉薬瓦か使われるようになったかについて、東広島市の気温を広島市や京都市と比べてみますと、各月の平均最低気温(1941-1970年30年間平均)は、東広島市か、十二月マイナス0・2度、一月マイナス2・3
、二月マイナス1・9度であるのに対し、広島市が2・4度、0・2度、0、4度、同じような盆地状の京都市でさえ1・6度、マイナス0・6度、マイナス0・3度となっていて、その必要性か分かります。またこの.瓦の原料となる油土か、三水方面に産出したことも、この瓦が用いられた大きな理由となります。明治.元年下三永に瓦工場ができてから、大正の初めには西条盆地付近で、年間15万貫、の油土を産出し150万枚の瓦を生産するようになり、第二次大戦までの約30年間で、屋根面積60万坪が釉薬瓦となったことになります。そして瓦の使用が増えてくるのと時を同じくして、それまでの藁葺や茅葺に対し、居蔵造りが生まれたものと思われます、建築の発生時期につきましては、実際に上吉川(八本松町)のT宅が、付近の大工さんによると明治の初めに建てられ100年は経ているとのことです。ところで、あの外形はどのようにして生まれたのでしょうか一見入り母屋風ではありますがその実そうでなく平屋建でありながら屋根が二重になり、その問はクチアキと呼ばれ、壁と柱か交互に並んでいます、クチアキの部分にはほとんど窓がないのが普通で、屋根裏を使用する場合の通風、採光のためにとったものとも考えられます。一階部分に壁かほとんどないのでその補強というこもないでしょう。かといってはじめから断熱のために生まれたというのも、うますぎる話で、それではこういうのはどうでしょう。

それまでの草葺の屋根勾配と、瓦葺の屋根勾配の差による
というのは初めは写真①のような草扉であったものか、写真②のようにしだいに軒瓦を付けるようになります。次に屋根全体を瓦で葺くようになるのですが、草葺の場合屋根勾配は10分の8程度であるのに対して、瓦葺きは通常10分の3・5からm10分の5(居蔵造り10分の5・5)で、そのままでは屋根が低く、家全体が小さくなり、周囲の草葺きの家々とのバランスが悪くなります。そこでクチアキ部分をとり、写真③のような外観となったのではないかと考ええられます。なおイグラの名の起こりははっきりしていませんが、瓦葺の
ことを称しで、イグラと呼んでいる地痘もあり(周防田布施町、山口市内、美禰市於福など)、また小屋組か井げたを組んだような格好をしているので、井ぐらというのが本当ではないかという意見もあります。
(鈴木)

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